カイロネイアの戦いをわかりやすく解説

カイロネイアの戦いをわかりやすく解説

カイロネイアの戦いをわかりやすく解説

カイロネイアの戦いは、紀元前338年に起こった、ギリシア北方で影響力を強めるアルゲアス朝マケドニアと、その伸張を脅威とみたアテナイ・テーバイ連合軍との間で起こった戦いです。
最終的にはマケドニアが勝利した結果、ほとんどのギリシアポリスはその支配下に屈することとなります。マケドニアの強い影響下で、ギリシア諸ポリスが伝統的な政治体制を保つのは難しくなり、ギリシアの歴史の1つの終焉となりました。マケドニアの締め付けの中でアテナイの民主政も終焉を迎えました。

 

この記事の内容

 

 

戦いの場所や両軍の戦力

戦いの舞台となったのはテーバイが支配していたボイオティア地方のカイロネイアです。ペトラコス山上に位置し、マケドニアからの侵入路をふさぐ古代ギリシアの要塞都市です。ギリシア軍約3万5000、マケドニア軍約3万2000と戦力はほぼ互角でした。

 

戦いの原因・背景

マケドニア王国はギリシア北部に位置する国家で、紀元前808年に古代ギリシア人により成立した国です。宗教も言語もギリシアのものですが、国家運営の方針は他のギリシア諸ポリスとは異なっていました。
ギリシア世界で起こったペルシア戦争やペロポネソス戦争といった大きな戦争にもあまり深入りせず、国内整備や領土拡張を着実に推し進め、影響力を強めていったのです。マケドニアはギリシア内戦の圏外にあったので、それが可能だったのです。

 

マケドニアはあからさまにギリシア全土の覇権確立を目論むようになり、アテナイ、テーバイなどギリシア諸ポリスとの対立が顕在化します。マケドニアのフィリッポス2世は和平案を提案しましたが、ギリシア側は全て拒否。最後通告を蹴られたマケドニアはギリシアに侵攻を開始しました。

 

 

勝者と勝因

結果はよく組織化され、軍事力で上回るマケドニアが勝者となりました。ギリシア側は重装歩兵を中心とした戦術で責めましたが、マケドニアの軽歩兵中心の戦術に打破され、あえなくギリシアの覇権をマケドニアに譲り渡すことになりました。
そして戦後結成された、マケドニア主導のコリントス同盟(ヘラス同盟)にスパルタ除く前ギリシアポリスが加盟したことで、全ギリシアポリスはマケドニアの支配下に屈したことになりました。

 

ただ同時に、マケドニアによりギリシア世界が統一されたことは、100年以上にもおよぶギリシア内戦に終止符が打たれたことも意味していました。内戦は明らかにギリシアの国土の荒廃や国力の疲弊を招いたので、ギリシア全体にとっては良い面もあったともいえます。ギリシア初の統一国家誕生ともいえます。

 

スパルタが戦争に不参加な理由

対マケドニアで結成されたギリシア連合に、アテナイに並ぶ強国であるスパルタは不参加です。理由はハッキリはしていませんが、スパルタが反マケドニア国というわけではなかったこと、連合国の1つであるテーバイとの仲が良くなかったから、などの説があります。
戦後マケドニアとギリシア諸ポリス間で、兵力供出などを義務づけるコリントス同盟(ヘラス同盟)が結ばれましたが、この同盟にもスパルタは不参加です。
そもそもスパルタはもともと他国との交流を好まない鎖国的な国なので当然といえば当然の選択といえます。国家成立以来保ってきた自治独立のやり方に干渉されたくなかったのでしょう。

 

 

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