ペリクレスの演説/死因/市民権法〜アテナイ全盛期の政治家〜

ペリクレスの演説/死因/市民権法〜アテナイ全盛期の政治家〜

ペリクレスの演説/死因/市民権法
〜アテナイ全盛期の政治家〜

古代ギリシア時代アテナイで活躍した政治家ペリクレスについて解説しています。彼の外交での活躍や、今だ語り継がれる名演説、そしてどのような最期を遂げたのか(死因)などなど、いろんな面を見ていきましょう。

 

この記事の内容

 

 

ペリクレスってどんな人?

ペリクレスは前444年から前430年のアテナイの民主政全盛期に活躍した人物です。
下級役人や貧民への徹底した支援・補助を行い、民主派の指導者として名をあげました。
また指導者としてだけでなく、弁舌家としても知られ、彼の行なった演説は現代でも語り継がれるほどです。

 

ペリクレス時代とは

ペルシア戦争後、平民がかつてないほど発言力を持ちました。漕ぎ手や重装歩兵として国に貢献したことで、貴族に対し「俺も政治に参加させろ!」と声を挙げはじめたのです。
そんな時、既得権益を守るため簡単には妥協しない貴族派閥に対し、平民の不満に耳を傾ける「民主派」が台頭します。その民主派の先頭にたっていた人物がペリクレスです。

 

彼は着々と市民の支持を集め、さらには陶片追放で政敵を排除するなどし、ついには将軍職(ストラテゴス)に選出されました。そして前451年、両親がアテネ市民であることを市民権の必要条件とする法律を成立させます。(ペリクレスの市民権法
このことでアテナイ民主政治は完成し、アテナイは全盛時代(前443年〜前429年)に突入したのです。彼が将軍職に就任していた前444年から430年までの15年間を「ペリクレス時代」とも呼びます。

 

 

外交での活躍

ペルシアとカリアスの和約を結び、スパルタやその同盟国と30年間の不可侵条約を結ぶなど、平和の維持に努めました。ただ後述しますが、自国中心の同盟から抜けようとしたポリスに過剰な圧力をかけるなど強行な面もあり、それが結果的にギリシア全土を巻き込んだ戦争を引き起こすきっかけにもなりました。

 

ペリクレスの演説

ペリクレスは弁舌に定評のある政治家で、ペロポネソス戦争に際しアテネ市民の決起に行なった演説は、現代でも欧米政治家の手本とされるほどです。演説の内容は以下のURLで紹介されているので是非見てみてください。

ペロポネソス戦争

彼はペルシア戦争結成されたデロス同盟における同盟資金を自国の発展につぎ込み、防衛費や建築費、海運維持費にあて、国の地盤を堅固なものとしました。
しかし強大化した国力を背景に、他のポリスへ服属を迫るなどアテナイの帝国化を推し進めました。このやり方に反発するポリスが続出し、やがて同盟から離反したポリスと対立するようになります。
そしてアテナイと双璧をなすスパルタが、離反したポリスを支援するようになると、紀元前431年、両者の間で戦争が勃発したのです。

 

詳細:ペロポネソス戦争をわかりやすく解説します

 

死因

ペリクレスが死んだのはペロポネソス戦争の最中のことです。
序盤は戦いを優位に進めていたアテナイですが、陸上戦ではスパルタにことごとく敗れ、都市を完全に包囲されてしまいます。
ひとまず籠城策で海上決戦の機会を見ていましたが、不運なことに封鎖された空間で伝染病が大流行。なんと全体の三分の一にも及ぶ市民が犠牲となりました。

 

この大惨事でペリクレスは市民の支持を失った上、自身も疾患し病死してしまったのです。指導者を失ったアテナイはの混乱はさらに深まり、ついに紀元前404年降伏に追い込まれました。
この時の死因はペストだと言われていましたが、しかし記録に残る症状の分析から、現在この説は否定されています。実際はチフスもしくは天然痘が原因とする説が有力です。

 

 

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